
ヤン・ファン・エイク
ヤン・ファン・エイク Jan van Eyck
(1390頃〜1441)
アルプス北方で、絵画はステンドグラスと写本画を意味していた。それを15世紀のフランドル絵画はまったく変えてしまった。ヤン・ファン・エイクとロヒール・ファン・デル・ウェイデンが描いた油彩画の精緻な細部描写と写実主義による絵画制作が新しい世界認識の手段にもなったとされる。
ヤン・ファン・エイクは1390頃、東部ネーデルラント、ドイツ国境に近いリンブルク(ランブール)地方で生まれた。修行期についての記録はない。1422年、ハーグのホラント伯の宮廷画家として、名前が残されているが、画家としての活動は伝えられていない。
1425年にブルゴーニュ公国フィリップ善良公の画家兼侍従に任じられている。1426年には遠隔地へ「秘密の旅行」に出かけ、28年には公の再婚の候補者、ポルトガル王女イサベルとの結婚をとりまとめる使節団の一員としてリスボンを訪れている。その際描いたイサベルの肖像は「生きているがごとく」と賞讃されている。35年には給与の支払いに不満をもったヤンに対して、公は「彼ほど自分の好みに合い、技量と学識に秀でた画家はいない」と述べ、財務官にただちに支払うよう命じたと伝えられている。
(1390頃〜1441)
アルプス北方で、絵画はステンドグラスと写本画を意味していた。それを15世紀のフランドル絵画はまったく変えてしまった。ヤン・ファン・エイクとロヒール・ファン・デル・ウェイデンが描いた油彩画の精緻な細部描写と写実主義による絵画制作が新しい世界認識の手段にもなったとされる。
ヤン・ファン・エイクは1390頃、東部ネーデルラント、ドイツ国境に近いリンブルク(ランブール)地方で生まれた。修行期についての記録はない。1422年、ハーグのホラント伯の宮廷画家として、名前が残されているが、画家としての活動は伝えられていない。
1425年にブルゴーニュ公国フィリップ善良公の画家兼侍従に任じられている。1426年には遠隔地へ「秘密の旅行」に出かけ、28年には公の再婚の候補者、ポルトガル王女イサベルとの結婚をとりまとめる使節団の一員としてリスボンを訪れている。その際描いたイサベルの肖像は「生きているがごとく」と賞讃されている。35年には給与の支払いに不満をもったヤンに対して、公は「彼ほど自分の好みに合い、技量と学識に秀でた画家はいない」と述べ、財務官にただちに支払うよう命じたと伝えられている。
ヤン・ファン・エイクについての記録は断片的に残されているだけで、人物はその作品を通して推測するしかない。
ヤン・ファン・エイクが描いた作品のなかに、フィリップ善良公の肖像画は残されていない。(政治的理由があるのかも)「宰相ロランの聖母」、「ボードワン・ド・ラノワの肖像」などブルゴーニュ宮廷に近い人物の肖像は残されている。ヤンがブルゴーニュ宮廷で芸術総監督のような役割をはたしていたとする説もある。
残されている作品のほとんどは「ゲント(ヘント)祭壇画(1432年)」以降10年間に描かれている。この祭壇画の閉扉時下段の額縁に「何人も勝ることなき画家フーベルト・ファン・エイクが着手し、技量において彼に次ぐ弟のヤンが、(注文者)ヨドクス・フェイトの要請によって、この任重き仕事を完成し、1432年5月6日にできあがった絵が保管されることをこの詩句をもって汝らに請い願う」と記されている。
ヤンの兄、フーベルト・ファン・エイクに関する資料はほとんど残されていない。フーベルトが油彩画の新しい技法を始めた人物なのかもしれない、などと思ってしまう。
世界美術大全集14 北方ルネサンス
西洋絵画の巨匠12 ファン・エイク 小学館 人物略歴
ヤン・ファン・エイクが描いた作品のなかに、フィリップ善良公の肖像画は残されていない。(政治的理由があるのかも)「宰相ロランの聖母」、「ボードワン・ド・ラノワの肖像」などブルゴーニュ宮廷に近い人物の肖像は残されている。ヤンがブルゴーニュ宮廷で芸術総監督のような役割をはたしていたとする説もある。
残されている作品のほとんどは「ゲント(ヘント)祭壇画(1432年)」以降10年間に描かれている。この祭壇画の閉扉時下段の額縁に「何人も勝ることなき画家フーベルト・ファン・エイクが着手し、技量において彼に次ぐ弟のヤンが、(注文者)ヨドクス・フェイトの要請によって、この任重き仕事を完成し、1432年5月6日にできあがった絵が保管されることをこの詩句をもって汝らに請い願う」と記されている。
ヤンの兄、フーベルト・ファン・エイクに関する資料はほとんど残されていない。フーベルトが油彩画の新しい技法を始めた人物なのかもしれない、などと思ってしまう。
世界美術大全集14 北方ルネサンス
西洋絵画の巨匠12 ファン・エイク 小学館 人物略歴